続・猫に腕まくら

ぶっこわれています

さかいめ

近頃、干し野菜がなにかと話題になっている。


けっこう興味があるんだけど、今のご時勢ではいかがなものかとか思いつつ、記事を読んだりしている。


で、ふと。

冷蔵庫の中の、しなびた野菜。新鮮でハリのある野菜に比べて、なんだかわびしく、おいしくなさそう。だけど、もしかしたら、水分が減ってる分味がしみやすくなってるのかな?


それともやはり天日干しっていう、太陽パワーが重要なのか。それでも電気式乾燥野菜作り器(たしかこんな意味の名前)も売ってるから、そうでもないのかな。

放置した結果のシナシナと、手間暇かけた意図的なシナシナ。

そこらへんが、干し野菜としなびた野菜の間の、深ーい溝なのか。



* * * * * * * * * 


あと、ずっと気になっていること。


愛着と執着のさかいめ。


これって、何事にもかかわってきて、振り回されて、わかったようなわからないような気になって、結局一生わからないのかもしれない。


心の中の、愛着と執着の住み分けがうまく出来るようになったら、苦しいことが劇的に減るかもしれないけど、もう修行僧にでもならないと無理かもと思ってしまう。


小さな例えだと、Tシャツ。ここ数年私はTシャツは無地でデザインが凝っていないもの、いわゆるユニク○のフツーのTシャツを愛用している。そして着倒す。で、捨てる(かなりの確率でちょん切ってウエス化)。で、買う。


とくに思い入れのない色とデザイン、しかも安いTシャツは、お別れがきてもあまり執着がない。一応切るとき「今までありがとさん」とは思うけれど。


こんな風に着るもの持ち物全てを、執着なしTシャツ化していくと、人にあげたり、古くなったら捨てたりと、自分から手放すときの心の負担が少なくなる。なるけれど、ほんとにそれでいいの?ともうひとりの自分が言う。


大好きなもの、気に入ったもの、思い入れがあるものに囲まれて暮らすってほうが、生きる醍醐味ってあるんでないかい?


でもそうすると、失うことが怖くなる。人に譲るなんてとんでもない、離したくないって執着が現れるんだよね。


これはモノにたいしての話だけで、これが人の話になったら、もっとこんがらがって長くなるので割愛。


今わかっているのは、エゴに支配されすぎた愛情は毒でしかないけど、だからっていつもうまく調節できるほど人間は出来ていないってことだけ。あ、愛情と愛着はまた違うか。でも執着しちゃうのは一緒だな。